【特集】スパイススエヒロ  ——カレー屋かどうかも、あやしい。そんな生き方——

【特集】
スパイススエヒロ
——カレー屋かどうかも、あやしい。そんな生き方——

目次


【第1章
誰がこれ、全部やってるんやろ? —スエヒロという“人生の縮図”

扉を開けた瞬間、立ち込めるスパイスの香りが鼻をくすぐる。 ああ、これは間違いなくカレー屋だ。そう思う。

でも、少し歩を進めたところで、それだけじゃないと気づく。 壁に飾られたデザインポスター。センスの良いウィンドウサイン。 棚の上にさりげなく並んだショップカード。

どれもこれも、誰かが魂を込めて「良い」と思って作ったものばかりだ。 しかも、そこには妙な統一感がある。 業者に頼んで整えたというよりも、ひとりの人間の頭と手から 湧き出したような世界が、ちゃんと店の中に息づいている。

気づけば、ひとつの問いが浮かんでいる。 「これ、いったい誰が全部やってるんやろ?」

キッチンに立つのは、柔らかい笑顔と気さくな空気をまとった、 黒いTシャツ姿の店主。 まさか、あなたが? と問いたくなるような、 あらゆる手仕事の痕跡が、空間のあちこちに残っている。

スパイススエヒロのセイさん。 カレー屋であり、デザイナーであり、看板屋であり、 イベントの主催者でもあり、時々Tシャツ屋でもある。

姫路のまちの中で、静かに、でもたしかに、 「スパイススエヒロ」という名前はひとつの現象になっている。

たった数坪の小さな店から、なぜそんな広がりが生まれるのか。 そして、どうして「誰かの心に残る場」を次々とつくることができるのか。

この人の話を聞いてみたい。 そう思うきっかけは、いつも決まってこの問いなのだ。

「この人、普段どんなこと考えてるんだろう?」

【第2章
「やりたいことが多いって、しんどいよ」

——でも、やらずにはいられない人の話

取材の前、アイスコーヒーを手にセイさんと話していたときのこと。

「いろいろやってて、楽しそうですね」

そう言った僕に、セイさんは一瞬笑って、ふっと漏らした。

「……やりたいことが多いって、しんどいよ。でも、やらずにはいられんのよ。しんどいよ」

その言葉が、胸に深く刺さった。

カウンター越しの柔らかい空気の向こうに、何か切実なものが見えた気がした。

あの言葉には、どこか矛盾がある。

“やりたい”と“しんどい”は本来、両立しない感情のはずなのに、セイさんの口から出てくると、それが自然に溶け合っていた。

Tシャツ屋も、イベントも、看板制作も、デザインも、どれも器用にやってのけるけど、いずれも「好きだから始めた」だけじゃないように思えた。

何かに応えたかったのかもしれない。

誰かの「困ってる」に反応して、気がついたら手を動かしていた。

あるいは、「自分のやりたい」を自分自身で実現できる場所を、少しずつ手作りしてきたのかもしれない。

「頼まれたからやった」「気づいたらやってた」——

その積み重ねの果てに、気づけば“何屋か分からない人”になっていた。

けれど本人は、そこに肩書きなんて求めていない。

「スエヒロは、セイさんやからなぁ」

まちの人たちは、そんなふうに自然に口にする。

忙しさに押し流されるような日々のなかでも、

「でも、やらずにはいられない」って気持ちだけは、いつも彼の背中を押し続けている。

それはたぶん、「しんどい」よりもずっと強い感情なんだ。

それこそが、今のセイさんをかたちづくっている“燃料”なのだと思う。

だからこの人の背後には、いつも小さな現場がある。

刷りたてのポスター。ペンキの匂い。湯気の立つカレー。

一見バラバラに見えるそのすべてが、「今ここにある生き方」の集積になっている。

“やりたいことが多すぎる人”というより、

“やりたいことから逃げずにいる人”。

しんどくても、やらずにはいられない。

それは、誰にでもできることじゃない。

【第3章
“小心者”の空間設計学

——味よりソウル、量より思いやり

「ぼく、ほんま小心者なんです」

そう笑いながら語るセイさんの言葉が、取材中ずっと頭に残っていた。

その言葉通り、スエヒロの空間は、派手でも押しつけがましくもない。

けれど、店の隅々に、妙な心地よさが漂っている。

カウンター席に座ってみると、背筋が自然に伸びる高さに作られていた。

壁沿いに置かれたメニューは手に取りやすく、余白が多くて見やすい。

テーブルの上も、スッキリとしていて、無駄がない。

「ここはこうした方がええかな?」と想像しながら手を加えてきたことが、伝わってくる。

実際、セイさんは「お客さんの様子が気になって仕方ない」と笑う。

忙しくても、どこかで店内の空気を見ている。

食べ終わった皿をすぐに下げるわけでもなく、会計を急かすこともない。

人が“居ること”を、そっと肯定してくれる空気がある。

料理にもそれは現れている。

見た目はシンプルだけど、あとからじんわりと味が広がるスパイスカレー。

「めちゃめちゃ旨い!」というより、「なんか、すごく優しいなあ」と思わせる。

あの一皿には、きっとセイさんの人柄がにじんでいる。

小心者、という言葉には、たいてい少しだけ自嘲のニュアンスがある。

でも、セイさんの場合、それはむしろ誇るべき“気遣いの起点”だ。

音量、距離感、導線、余白。

見えないレイヤーで、空間はそっとチューニングされている。

自分のこだわりより、人の心の動きを優先する。

“気にしすぎる人”がつくる店だからこそ、

気にしすぎる人でも、ここでは安心できるのかもしれない。

【第4章
カレーというフィルター

——人との関係性が、本体なんだと思う

スエヒロのカレーは、もちろんおいしい。

香りも、スパイスの調和も、ちゃんと店の看板を張れる実力がある。

けど——この店を訪れた誰もが感じるのは、それだけじゃない。

カレーを食べに来たつもりが、

気づけば**“セイさんに会いに来た”**ことになっている。

会話がある日もあれば、ない日もある。

カウンター越しに軽く会釈を交わすだけの日だってあれば、忙しくて全く顔も見れないこともある。

それでも、この店にはちゃんと**「関係性」が残る。**

カレーはもうとっくに飲み込んでしまっているのに、

店を出たあとも、じんわりと残る何かがある。

それが「スエヒロでカレーを食べる」という体験の、

いちばん本質に近いところなんじゃないかと僕は思っている。

セイさんは、おそらく、

**「自分が何を作っているか」よりも、

「自分と人とが、どう関わっているか」**に意識を向けている。

だからこそ、このカレーはただの料理じゃなく、

人との接点であり、距離感であり、

もっというなら“鏡”みたいなものなんじゃないか。

たとえ言葉が交わされなくても、

セイさんはちゃんと、こっちを見てくれている気がする。

「どうだったかな」「何を感じたかな」って。

その気配を、僕らも無意識に受け取っている。

カレーは、ツール。

本体は、きっと——関係性そのものだ。

【第5章
—セイさんは、たぶんずっと
——あの頃の自分を、今もずっと、救い続けている。

幼稚園の頃から「自分だけがわかっていない」という感覚があったという。

勉強についていけず、宿題も出さず、ずっとクラスの“下のほう”。

親や先生からもずっと心配されていた。

「やっても、どうせわからへん」。そんな気持ちが心に居座り続けていた。

そんな彼が選ばされたのが、“監獄みたい”と語る全寮制の高校・日生学園。

ただ、そこで出会ったのは、初めての「わかる」という感覚だった。

細かくレベル分けされた授業。高校生になって、足し算や引き算から学び直した。

“ちょっとわかる”が積み重なって、やがて大学進学という結果にたどり着く。

でもそれは、勉強の話で終わらなかった。

20歳の頃。

親しくしていた友達に、不意にこう言われた。

「なんか、自分のことしか考えてないよな」

ガーンときた。

本当に、衝撃だった。

思えば——高校時代は、徹底的に管理されていた。

自由なんてほとんどなかった。

毎朝、同じ時間に起きて、同じ服を着て、言われた通りに動く。

「自分の意思」なんてものを、出せる余地はなかった。

だからこそ、大学に入って一人暮らしを始めたとき、

その反動のように“自我の開放”が訪れた。

やりたいようにやる。

食べたいときに食べて、起きたいときに起きて、関わりたい人とだけ関わる。

とにかく自由に振る舞った。

けれど——その自由の中で、いつの間にか、

「自分のことしか考えてない」自分になっていた。

その友達の一言で、ハッとした。

「俺、これでええんかな」って。

自分の中に、何か大事なものが欠けているような感覚が芽生えた。

そこからセイさんは変わり始めた。

「これは相手にとって気持ちいいかな?」——行動の前に、一度立ち止まって考えるようになった。

最初はぎこちなかった。でも、繰り返しているうちに、少しずつ自然になっていった。

誰かを思いやって動いてみたとき。

相手が楽しそうにしてくれると、自分の中にも“あったかい何か”が生まれた。

「これ、楽しいかも」

そうやって、セイさんの“やさしさ”はゆっくりと育っていった。

だから——

イベントも、デザインも、スパイスも。

そのすべての営みの奥には、「過去の自分」がいるように思える。

クラスの中で取り残されたあの子。

野球のノックを避け続けたあの子。

絵で褒められて嬉しかったのに、天才的な平川くんの出現に挫けたあの子。

セイさんのなかで、あの子たちはまだ、少しずつ救われ続けている。

その姿はどこか、優しくて、でも戦っている。

そしてたぶん——

セイさん自身も、そういう人でありたいと、ずっと願ってきたんだと思う。

【第6章
うまくやろうと思ってない。けど、動く量がえぐい。

——テレビの裏側で、セイさんがやってたこと

「失敗してもええねん」なんて、セイさんは言わない。

でも、セイさんの生き方そのものが、そう語っている。

たとえば、テレビに出たことがある。地上波の特集で、セイさんの店と暮らしが30分間流れた。

「反響すごかったです。電話も鳴りっぱなし。でも、途中からもう、電話を取るのも嫌になった」

あの“成功体験”の裏にあるのは、むしろ逆。消耗し、戸惑い、距離を取りたくなるほどの重圧だった。

それでもセイさんは、やめなかった。

カレー屋を続けたし、マルシェもやったし、イベントもデザインも、誰に頼まれるでもなく勝手に手を動かした。

本人はよく「無自覚です」と笑うけど、こちらから見るとただの無自覚じゃない。

**失敗の連続を越えてきた“挑戦の証”**が、そこにはある。

やってみて、壊れて、もう一回やって、また迷って。

そのくり返しが、気づけば10年近く、街の風景を少しずつ変えてきた。

「うまくやろうと思ってないんですよね」

これはセイさんが語ったときの、正直な言葉だ。

でもそれって、裏を返せば——「とにかくやってみてる」ってこと。

しかもその量が、えぐい。とにかく動いてる。

お店のサインも、Tシャツのデザインも、シルク印刷も、店舗改装も、告知ポスターも——

気づけば全部、自分でやってた。いつのまにか、「頼まれごとは断らない」が当たり前になっていた。

すごい計画があるわけじゃない。

いつかどこかに“正解”があると思ってるわけでもない。

それでも、手を動かして、会場をつくって、来てくれた人と笑ってる。

未完成でも、十分、意味がある。

途中でも、すでに、誰かに届いてる。

それを、セイさんは言葉では言わない。

でも、姿で、動きで、毎日伝えてる。

うまくやろうと思ってない。

でも、動く量が、ほんとうにえぐい。

それだけで、もう充分すぎるくらい、人の心を動かしてる。

【第7章
たまにふと、あれ?俺、工場長になってない?って思うことがある

——厨房に埋もれず、街と人の中で生きたい

「たまにふと、思うことがあるんですよ」

カウンター越しに、セイさんが笑う。

「俺、ずっと厨房でカレー作って盛り付けてってしてるけど……あれ?これって工場長になったんかなって」

それは、自虐のようでいて、本音でもある。

セイさんは盛り付けまで必ず自分でやらないと気が済まない。もちろん料理が嫌いなわけじゃない。

けれど——そこに**“自分のすべて”が埋まってしまうことには、どこかで危機感がある。**

厨房にこもって、仕込みして、盛りつけて、洗い物して、片付けて、また明日の仕込みをする。

そんなサイクルを淡々と繰り返していたら、気づけば”とにかく作るだけの人”っていう日がくるかもしれない。

それはセイさんにとって、ちょっとだけ、怖い未来だ。

「ずっと厨房におると、外のこと、できへんくなるんですよね」

店以外の場所、人、プロジェクト。

どこかに出かけていって、誰かと一緒に何かを作ったり、想像したり、街の空気に触れたり。

そういう関わりが、自分を少しずつ保ってくれる。

特にイベントの日”だけ”は唯一、現場をスタッフに任せて、なるべく外に出るようにしている。

セイさんがどれだけ”人との直接的なつながり”を大事にしているかがわかる気がする。

Tシャツのシルクスクリーンを刷ったり、看板を描いたり、マルシェの打ち合わせをしたり。

時には、地域の街づくりプランに参加することもある。

そこに共通しているのは、**「人との関わり」**だ。

「誰かに声をかけてもらうと、それが原動力になるんですよ」

「こういうの、セイさんできる?って聞かれたら、やってみよか・・・って言ってしまう」

「ほんで、やってみたら意外とできるから、“じゃあ今後もお願い”ってなって、だんだん仕事が増えていく」

まるでスエヒロという存在自体が、**「頼られることで成り立っている装置」**のようにも見える。

厨房のカレーだけじゃなく、街のいろんな場所にセイさんの手仕事が残っている。

——工場長じゃなくて、プレイヤーでいたい。

それは、目立ちたいとか、成功したいという願いとは違う。

セイさんにとっての“プレイヤー”とは、誰かと何かを一緒に作っている人のこと。

結果じゃなく、過程のなかにちゃんと自分がいるということ。

だから今日も、厨房の合間にふと手を止めて、

「これって俺、工場長やってないか?」と問い直す。

それは、きっとセイさんが“生きてるかどうか”を測る、温度計のようなものなんだと思う。

【第8章
遺作になってもええと思ってる

——人生のラストシーンを、笑って過ごすために

「遺作になってもええと思って、つくってるんです」

セイさんがそう言ったのは、何気ない会話のなかだった。

けれど、その一言には、いろんな“想いの結晶”が込められていたように思う。

イベントで描いた壁画。

看板のペンキ。

カレーの香り。

マルシェで配ったフライヤー。

誰かに頼まれて刷ったTシャツ。

どれもこれも、「明日死んでも後悔ない」って思えるものばかりなのだと思う。

それは、ひとつひとつが未完成のままでいいという開き直りじゃない。

逆だ。

「ちゃんと、自分としてやりきった」と言えるように——

“その瞬間の本気”を、毎回ちゃんと込めてるということ。

セイさんは、自分の人生を「編集」している。

過去の痛み、寄り道、選択、偶然、失敗。

すべてを素材として受け入れて、自分という“冊子”を作り続けているような人だ。

でもその編集作業は、自己完結じゃない。

ページのあちこちに、誰かの手が加わっている。

「これ、セイさんにお願いしていい?」

「こういうの、いける?」

そんな言葉に応えながら、いつのまにか“共作”の人生になっていく。

そして、そんな日々を積み重ねた先に、

たとえば——突然、終わりが訪れたとしても。

「まあ、これが俺の遺作か」って、笑えたらいい。

それくらいの覚悟と、軽やかさと、愛しさを持って、生きてる。

カレーは、きっとその象徴なんだと思う。

スパイスの調合、仕込み、盛りつけ。

すべてを丁寧にやっても、一瞬で消えてなくなる。

けど、だからこそ、“今”の自分が表れる。

「食べてもらえたら、もう、それで充分です」

セイさんはそう言うけど、

その一皿には、ちゃんと、“人生の断片”が入ってる。

それを、誰かが食べる。

誰かのなかに、残る。

きっとそれだけでいいのだ。

セイさんの人生は、全部、未完で、全部、完成している。

そんな気がしてならない。



【編集後記】

——あの子に、届きますように。

最初は、カレー屋さんの特集のつもりでした。

でも、話を聞けば聞くほど、「カレー」は、ほんの入口にすぎないことがわかっていきました。

セイさんという人は、目の前の仕事や頼まれごとに、誠実に応えているだけに見えて、

そのすべてが、“過去の自分”を癒し、“誰かの今日”を支える行為になっている。

それを、本人はきっと、わざわざ口にしたりはしません。

照れもあるし、どこか無自覚でもある。

けれど、語られた断片たちを並べていくと、そこには一本の静かな線が見えてくる。

「人とちゃんと関わりたい」

「やるなら、やりきりたい」

「生きてる実感がほしい」

「そして、いつか誰かの“きっかけ”になれたらいい」

そんな想いが、すこしずつ重なっている。

だからこの記事は、“セイさんという人生の編集作業”に、少しだけ立ち会わせてもらった記録です。

もしかすると、あなたのなかにも、あの頃の自分がまだ座り込んだままかもしれない。

でも、いつからでも遅くない。

「やってみようかな」って思えた今日が、一番若い日だ。

この文章が、そんな“きっかけのかけら”になれたなら、

それがこの特集の、いちばん嬉しい着地です。

——Lo-Fi HIMEJI 編集部


#カレーは名刺であり手紙

#遅すぎるなんてことはない

#厨房に埋もれない人生

#誰かに頼られるという生き方

#人気者になれなかったあの子へ

#完成してないから、完成してる

#毎日が、遺作かもしれない

#あの子に届くように


スパイススエヒロ
店名:スパイススエヒロ
住所:兵庫県姫路市元塩町119
営業時間:11:30〜16:00(L.O.14:30)※売り切れ次第終了
定休日:木曜・金曜
Instagram:@spice_suehiro

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